創造力とエゴのsiamese dreams

2008年のSmashingPumpkinsのライブ映像。


ビリー単独でもまったくそん色ない。


つくづく独裁的なバンドだったんだなーという感想もあるけど、なんでバンド形態にこだわるんかと考えてまう。
90'sのSmashinPumpkinsを知っている人で新ベーシスト見てダーシー連想しない人はいないと思う。
独りでもスマパン名乗れる態度を見ると、バンド形態なのはビリーの頭の中の理想像を具現化してるだけで、大事なのはビジュアルイメージ(ベーシストは女の子!、ドラムはマッチョ!)であり各パートに誰が入るかなんてどうでもいいことなんだなあ。
それとも一番良かったころ(Gishらへん?)への郷愁に囚われているんだろうか。

独りじゃだめなくせに、人に自分のイメージとおりの振る舞いを強要する。
だから離れていき独りになるのに。エゴってやつはほんと魔物だぜ。

創造力とエゴはsiamese dreams*1なのかという命題が浮かぶ。

この題材のケーススタディはミュージシャンにはたくさんある。
ビリーと極端に似ているのは同時代のGuns'nRosesのアクセルローズだ。
同じく独裁者ながらバンドに囚われバンドという衣をまとっただけのソロ活動中だ。
ビジネス的な側面も強いと思われるが(コンサートの動員力やNewAlbumのニュース性など利はいくらでも挙げられる)、
なぜソロで活動できないのかという点にはこれだけでは割り切れない。
バンドからソロ転向して成功した例も多いからだ。Buffalo Springfieldの二ールヤング、genesysのフィルコリンズ、Destiny's Childのビヨンセなどは今やソロとしての方が有名なくらいだ。

こんなことが気になるのは創造力とエゴの話に加えて、音楽というものが独りでつくるものではない(だからこそビリーもアクセルもバンドにこだわるのでは)ことも合わせると、webやゲームでイノベーティブナ製品をつくりだすと言うことにもアナロジーできる気がするからだ。

クリエティブを突き詰めるとある特異な能力の持ち主が独裁的に製品のディテールまで取り決めるかたちに行き着くと思うが、一方でリーダーのビジョンに共鳴したたくさんの人や組織が力を尽くすことで革新的な製品というのは”脱皮”して世に広まっていくのだと思う。

いったいどこまでをビジョナリーの人間が抱え込み、どこからが他の人に委ねるべきなのか。

同じく音楽の世界でケースを探すならば、この点において素晴らしいグループだと思えるのはLedZeppelinである。

ジミーペイジは自分の得意なことをよくわかっていた。
一方で、ジミーペイジは自分の限界もよくわかっていた。
そして、ジミーペイジは他の人への敬意を持っていた。(ジョーンジーだけはいじめられてたみたいだけどね^^;)

ギタリストとして常に自分の上をいく人物と向き合わざるをえなかったこと(エリッククラプトン、ジェフベック、ジミヘンドリクス)、そして素直に彼らを賞賛し認められる性格がこれらの資質を徹底的に研ぎ澄ませたように思う。

歴史を振り返ると同時代の同分野(加えて言うと、産業の勃興期や成長期)に優れた業績を残した人物が大量に生まれることもこういうことなのではないかと思う。

自分の資質と徹底的に向き合い、特異なところを伸ばして生き残る術を見つけるサバイバルが相互作用を及ぼし一度に大量の傑出した才能を育むのではないかということだが、
そこには自分がどうあがいても勝てないというライバルが必要なんじゃないかな。
地理的な意味で集まるというのはこうした刺激を発動しやすいわけで、60'sロンドンや90'sシリコンバレーは素敵な空間だったんだろうな(その場にいたらものすごい競争社会ですぐにギブアップしそうだけどね)。

2010年代の日本の"ロンドン"はどこにあるんでしょうね。やっぱ六本木!?w

*1:SmashingPumpkinsの2ndアルバムのタイトル。http://en.wikipedia.org/wiki/Siamese_Dream